高田修三の空想科学雑談

高田修三が、幾分か科学的に、好き勝手空想する。

親や教師が子供を育てる時代の終焉

あなたは、その子供の実の親や、学校の教師が子育てをするのが当たり前だと思ってはいないだろうか?
まず先に言っておきたいのは、今愛情をもって子育てをしている人を批判するつもりは全くないことだ。それはとても素晴らしいことだ。
でもそれが数十年後も続いているとは限らない可能性についてだ。

動物にはさまざまな種類があるが、哺乳類と鳥類は子育てをする。
他の動物は必要なことを本能として知っていて、自分の力だけで学習をしていくが、哺乳類と鳥類は餌の取り方や敵との相対し方、寒い冬の過ごし方など、生活にとって必要な諸々の知識を教え込む。
教育という活動の萌芽である。
この教育の内容は、子の親も親の親も親の親の親も、ずっと代々同じであったのである。
どこでどうやって餌をとるかなどは、餌の標的や餌の場所が変わらない限り、わざわざ教える内容を変える必要はないからだ。

ところが人間はどうだろうか?
動物にとっての餌である、お金を得る方法はものすごい勢いで変化しているではないか
昔は世界では農民が圧倒的に多く、産業革命が起きると工員が増えて、また時代がかわると事務員つまりサラリーマンが急速に増えた。
そして現在では、フリーランスで生計を立てる人がどんどん出てきている。
曽祖父は農家で、祖父は工員で、父親はサラリーマンで、そして自分はフリーランスということが普通に起きえることだ。
こうなると親が子に教える内容は、あまりに時代から取り残されていて陳腐化している可能性が高い。10年一昔前ということばがあるが、親が30歳で子が0歳なら30歳も年が離れていて、三昔も前の人が子供に教育することになる。
教師だって同じだ、生徒よりもはるかに年上の人が教育をする。
変化がゆっくりな時代ならそれでよかったのかもしれない。しかし今の時代はものすごい勢いで変化をしている。教育を根本から変える必要があるのはないのか?

では具体的にはどのように教育をすればいいのか?ここからは僕の完全なる妄想であるがおつきあいをいただきたい。
まず第一に親は自分の子供を自分の家に置くのではなく、教育施設に預けるのが一般的にしてみるのはどうか?
何を言うと思うかもしれないが、「母性という神話」という本に寄れば、17〜18世紀のフランスのパリをはじめとする都市では、あまり裕福でない階級でも、子供は乳母に預けて育てさせるのが一般的だった。
それも、近所にいるわけでなく、都市から遠く離れた農村へ、生まれてすぐに洗礼したらほいっと押しつけて後は数年間放りっぱなしという感じである。つまり母性などというのは本能ではなく、作り出された価値観であるとこの本では喝破している。

母性という神話 (ちくま学芸文庫)

母性という神話 (ちくま学芸文庫)

つまり我々人間は、実の子を自分のもとに置かないで育てることにあまり抵抗感を感じない動物なのかもしれない。

それでは子供が預けられた教育施設では、どのように教育をするのがいいのだろうか?
歳が何歳も上の教師が教育をするのは駄目だ。
今では同じ年齢の子供同士が同じクラスに収容されているが、この施設では歳が±3歳くらいのちょっとだけ年齢が離れている同士で、授業を教えあうというのがいいのではないだろうか?
教育のツールとしてコンピュータ、そしてさらに時代が進めばロボットを使うのがいいのではないだろうか?コンピューターやロボットは人間と違って、年をとって頭が固くなることもない、どんどん新しい情報や価値観を取り込んでいく。教育者としては最適なのではないだろうか?

それでは、まとめると未来の子供の教育方法は、子供を産んだら(そもそもこの子供を産む行為も現在と同じような方法であるか疑わしい)成人するまで教育施設に預ける。
そこでは、コンピューターやロボットが授業をして勉強を学び、コミュニケーション能力に関しては、少し歳の離れた同級生同士で接することによって学ぶ。こんな時代が来るかもしれない。

以上が僕の考えた理想の教育論である。意見や反論があったらぜひコメントしてほしい